時々に思っていること、考えていることをフランクに、リアルに、友達に語るように、バトンリレー式につぶやいてゆくコラム『考える金沢人』の第5弾!!です。
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初めまして。京都府長岡京市でArt gallery&shopを運営しています、風(ぴゅー)の松本です。石川県で生まれ、約24年過ごし、関西に来てから7年くらい経ちます。地元も年に1度帰るかどうかの疎遠な関係になってしまった中で、「考える金沢人」のリレーコラムの話が回ってきた時、なんだか感慨深い気持ちになりました。こうして何かしら地元との繋がりができることが嬉しくて。
こういうコラムを執筆すること自体初めてなので、上手く文章を書けるかどうか、不安ではあるのですが…こういう機会も中々ないので、自分の今までの人生で一番衝撃的だった出来事について書こうと思います。正直な所、よく分からない話なので、話半分くらいで聞いてもらえると。
「関西五芒星巡り」
ぼくは昔から、「見えない世界」についてすごく興味があります。子供の頃は、たまに変なものを見たり、今思えば不思議だったなと思う現象が時々あったりして、「見えない世界」のことが、割と身近だったことも、あるからかもしれません。当時は自分だけじゃなく、皆が見えていると思っていたので、何も不思議と思っていませんでした。ある程度成長すると、何も感じなくなったのですが、「見えない世界」についての興味は深まるばかりで、スピリチュアル系の本ばかり読んでいました。
特に、神仏研究家・文筆家である桜井識子さんの本が好きで、よく読んでいます。数ある書籍の一つに「にほんの結界ふしぎ巡り」(宝島社)という書籍があるのですが、その中に「関西五芒星巡り」というのがあります。簡潔に説明すると、近畿地方にある5つの代表的な神社へ五芒星を描くように周るというものです。
・5つの代表的な神社
元伊勢内宮皇大神社(京都)、熊野本宮大社(和歌山)、伊吹山(滋賀)、伊奘諾神宮(淡路島)、伊勢神宮内宮(三重)
写真のように、地図上でこの5つの場所を結ぶと綺麗に五芒星になります。これに倣って、実際に自分が移動して、五芒星を作るという修行?です(興味がある方は調べてみてください。)
これは1年に1回周ることで効果を得られるものなので(1年に1回交換するお札のような感じ)、ぼくは毎年行っているのですが、今回のコラムに書く内容は2021年に周った時の出来事です。
「伊勢神宮内宮で」
2021年は自分にとって初めての「関西五芒星巡り」でした。伊勢神宮内宮は、周る順序的に、ほぼゴール間近の時に行きました。5日間の日程で、各箇所を周っており、伊勢神宮内宮は4日目だったのもあって、かなり疲れていました(1日車で片道6〜7時間を運転)。
朝5時に伊勢神宮内宮に到着し、宇治橋を渡って神域に入ります。橋を渡りきって、鳥居をくぐってから、五十鈴川の手を清める御手洗場までしばらく歩きます。
その道中から異変が起きました。まず、自分が見ている景色が歪みはじめました。初めは疲労のせいで、目眩がしているのかと思ったのですが、明らかにおかしい。歩いても歩いても、自分が思っている以上に進まない。というか空間が離れていく…?何を言っているか訳がわからないと思うのですが、自分が進みたい方向の空間がどんどん前に広がっていって、全然進んでいる気がしないのです。早朝の参拝だったので、参拝客はまばらだったのですが、その人たちと、自分の実際の距離感がつかめない。近くにいるのか遠くにいるのかもわからない状態になりました。
なんとか必死で御手洗場まで行き、手を清めて正宮まで向かいました。ここからまた鳥居をくぐるのですが、そこで空気がガラッと変わるのを感じました。よりパワーみたいなのが強くなるというか、ちょっと息がしにくいと感じるくらいに、そこの空間が見えない何かで満ちあふれていて、空間の歪みもさらに増してきたのです。
「正宮へ」
空間の歪みに慣れないまま、なんとか正宮まで向かっていたのですが、近づくにつれ、周りに生えている木が明らかに変化していくのが分かります。伊勢神宮内宮に行ったことがある人はわかるかと思うのですが、正宮近辺の木はどれも、一般的な神社の御神木クラスのものばかり生えているのです。
「明らかにパワーが違う…」と木をじーっと見ていると、木からもりもりパワーが出てきました。そのもりもりが、実際に木が動いているように見えて(血管が脈打ってるみたいな)、しばらく見惚れていました。
正宮正面の階段に到着し、いよいよ神様にお会いできる、と意気込んで上がり始めると、だんだんと目の前が眩しく感じてきました。正宮の拝殿がある撮影禁止のゾーンに足を踏み入れ、手を合わせて目を閉じた時、目の前?頭の中?に、真っ白い太陽みたいなものが現れました。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」。
それがあまりにも神々しくて、直感的に神様だと分かりました。その存在感、大きさ(無限に広がる感じ)に感動するのと同時に、ものすごい恐怖感が湧き起こりました。自分の全てが見透かされているような恐怖感。おそらく自分の想像を遥かに超えた存在が急に目の前に現れたせいで、脳の処理が追いついてなかったのだと思います。身体が小刻みに震え始めて、じっと手を合わせることも出来なくなりました。
その間、ぼくは「未熟なものが、参拝に来てごめんなさい」となぜかずーっと謝っていました(心の中で)。あまりにも目の前にいる存在が尊すぎて、自分の存在が恥ずかしくなってしまったからです。
ですが、そういった恐怖感以上に、この存在に無条件に愛されていいのだという謎の安心感を感じていました。今までに味わったことのない、異常なほどの多幸感に包まれ、「これだけすごい存在に見守られている自分は本当に幸せ!」と心の底から感じていました。
この感動を例えると、受精の時に、卵子に初めて出会ったときの、精子の気分に近いでしょうか。もちろん映像としての記憶には無いのですが、自分がまだ精子だった時、卵子という大きな存在に出会って、すごく感動したのだろうなという感覚を覚えました。
あまりの感動に震えながらも、卵子に向かって、がむしゃらに進んで行き、受精にトライする”精子”だった自分の姿と、神様と出会って感動している、”今”の自分がリンクしたのです。これは身体?魂?に刻まれた記憶というか、感覚としての記憶がフラッシュバックしたのだと勝手に思っています。
「前世?の姿が見える」
正宮でとんでもない体験をして、意識が飛びそうになっていたため、出口に向かって、早足で参道を歩いていた所、急に自分の左肩の辺りに、人?(侍っぽい)の顔がぼやーっと浮かんでいるのが見えました。普通なら、かなり驚くシチュエーションだと思うのですが、それ以上に、すごい体験をした直後だったこともあり、なぜかすんなり受け入れることができました。
「侍?の顔が左肩にくっついてる…しかもちょっと笑っているような…」
左肩の侍が、なぜかこっちを見て微笑んでいるのです(多分)。その時、ようやく自分の存在に気づいてくれたという、喜びの感情みたいなものが感じ取れました。そして同時に、自分が今見ている世界と、その侍が生きていた頃に見ていた世界が重なって見えたのです。おそらく、侍が生きていた頃に、伊勢神宮に参拝した時のことを思い出し、その時に見た景色を、自分に共有してくれているのだと、直感的に感じました。
ぼくにとっては、今日が2回目の参拝のはずなのに、伊勢神宮のどこの景色を見ても、「懐かしい…」と心の底から感動するのです。
きっと侍も、伊勢神宮に参拝することができて、感動しているんだなーとしみじみ感じていると、ふと昔に言われたことを思い出しました。祖母の知り合いに、霊感が強い方がいるのですが、その人にお会いした時、
「あんたには侍がついている。髭が特徴的な侍。前田利家に仕えていた人。」
と言われたことを思い出しました。もしかして左肩にいた人ってその人だったのかと、後々、帰ってから調べてみると、前田家に仕えていた家臣で、「村井長頼」という侍が見つかりました。髭が特徴的で、別名「髭侍」と言われていたとか。村井長頼の生涯を綴った書籍が出ているということで、読んでみたが、あまりピンとこない。やっぱり勘違いだったのかな…と、今でも確証は得られないままです。
お話は以上です。この衝撃的な体験をして以降、自分の人生が変わりました。自分の気持ちに対して素直に生きよう。マインドフルに生きようと。将来や生活が不安だからといって、自分のやりたい事・夢を諦めないこと。どんな形でもいいから、とりあえず行動に移してみたら、意外な所から助けてもらえたり、チャンスを恵んで頂けたりします。ぼくの今の活動を実行に移すきっかけも、この体験からです。実際にぼくも自由にしながら、なんとかこうして生きています(笑)。
きっと神様に出会ったことで、自分の夢に向かって、一歩踏み出す勇気がもらえたのかなと思っています。あれだけのすごい存在が自分のことを見守ってくれていると思うだけで、大概のことは何とかなる気がします。それにもっと自分が立派な人間になれるように頑張って、神様にその姿を見てもらいたい。そんな気持ちから、以前よりも前向きに生きられるようになりました。
皆さんにも、もっと気軽に、神社・お寺に参拝してほしいなーと思います。行きつけのお店に行くような感覚で、行きつけの神社・お寺を作ってみてください。きっと今以上に、人生が好転するはず。そして、「神様を見た!」という経験をする人がもっと増えてほしいです。人によって、神様の姿は違って見えるかもしれませんが、「神様って、真っ白で、大きくて、あったかくて、すごいんだよ!」っていうことを共有できたら嬉しいです。