金沢美術工芸大学(KANABI)から、最新のトピックをお届けするコラム「KANABIカッティング・エッジ」。第1回から本格的に始まる連載を前に、今回はコラムのねらいやKANABIの基本的なあれこれを書いてみたいと思います。
コラムの名称になっている「カッティング・エッジ cutting edge」とは、「最先端の、最新の」などを意味する表現です。創造性豊かな美術・工芸・デザインを通じて新しい価値、新しい世界の見方を世の中に発信しているKANABIにはピッタリな言葉で、コラムの名称にふさわしいといえるでしょう。大学の話題を多様な観点から提供していくために、本コラムでは本学教職員のみならず、学生や助手を含むさまざまな本学関係者が筆を執っていく予定です。
さて、最新の話題といっても、その新しさや意味をよく理解するためには、古(いにしえ)を知っておく必要があります。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という言葉に従って、連載初回はKANABIの歴史をざっくりと振り返っておくことにしましょう。
金沢美術工芸大学の前身は、終戦翌年の1946年に設立された金沢美術工芸専門学校です。金沢の地に美術学校が設けられたのは、ご存じの通り、加賀藩前田家によって伝統工芸・伝統芸能が奨励されていたという土地柄があるからなのですが、直接のきっかけは、空襲を受けなかった金沢の市民が、戦後に「新日本文化興隆の一翼を荷ふこと」を「非戦災土地の義務」(*1)とする覚悟を持ったことに端を発しています。1950年には短期大学、1955年には4年制大学となりましたが、校舎としては、現在は石川県立歴史博物館/加賀本多博物館となっている出羽町の旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫(国指定重要文化財)を、専門学校時代から1970年代初頭まで使用していました【写真1】。小立野5丁目の現キャンパスは1972年に竣工。以来ほぼ半世紀、KANABIはこの小立野からたくさんの卒業生を送り出してきました【写真2】。学科構成に関していえば、専門学校時代の4科(美術科、陶磁科、漆工科、金工科)から始まり、1996年に再編されて現在に続く3科(美術科、デザイン科、工芸科)に至るまでにいくつものステップがありました。
この春から、いくつかの専攻では新カリキュラムがスタートしたのですが、2023年におけるKANABIの最大のトピックといえば、やはり新キャンパスへの移転です【図1】。一般にRC造(鉄筋コンクリート造)の耐用年数は40~60年と言われたりしますから、77年間で2度のキャンパス移転はそれだけで見ると特にどうということもない印象です。けれども、法人化したもののKANABIは金沢市が設立した市立大学です。学生総数700人程度の小規模な単科大学とはいえ、人口46万人という中核市規模の金沢にとっては、昨今の経済環境の中でキャンパスをまるっと更新することは大きな決断であった、といえるでしょう。この決断には、終戦翌年に専門学校を設立した時のあの「覚悟」が、今でも脈々と受け継がれているように私には感じられます。私が教員として着任した時、同僚の先生に「美大の学生は街で大事にされているんですよ」と教えてもらいましたが、KANABIに対する市民の方々のあたたかな理解が金沢という街のプライドと地続きとなっていることを、最近改めて実感しています。新キャンパスの実現は、人口46万とか、77年間で2回目の移転、などといった表面的な数字だけでは諮ることができないこと、すなわち「新しい日本の文化の一翼を担う」という終戦直後の金沢の覚悟が今も息づいていること、そしてその覚悟を体現するKANABIが現在でも市民の方々に愛されていること、これらの確かな証拠になっているように思われます。
令和時代も「日本の文化の一翼を担うぞ」という金沢の意気込み、その表れともいえる新キャンパスは10月の後学期から稼働予定です。前学期終了後の8~9月には、ヒトとモノの移転作業で小立野界隈はとても賑やかになることでしょう。KANABIの最初の赤煉瓦校舎は近代建築としての価値が評価され、後に重要文化財に指定されました。新県立図書館と向かい合うロケーションに位置する新校舎も、鈴木大拙館、金沢21世紀美術館、海みらい図書館などと並ぶ現代建築として、金沢の新しいランドマーク、新しいプライドに成長することが期待されています。
(*1)金沢美術工芸大学 50年史編纂委員会編『金沢美術工芸大学50年史』、金沢美術工芸大学、1996年、7頁。